伊達政宗の書状が発見。内容は、秀吉に遅刻の言い訳!? [日本史]
戦国大名の伊達政宗の書状が発見されたようです。
書状は政宗の自筆で、宛先は当時の天下人、豊臣秀吉。
その内容はというと…
遅刻の言い訳でした!
この書状が書かれた背景はというと、
小田原攻めの遅参に許された際、秀吉は政宗の首元を指し、
「もう少し来るのが遅れていたら、ここが危なかったぞ…」
としっかりと脅されています。
そして、翌月にいきなりの遅刻。秀吉は既に宇都宮に到着しています。
政宗が焦ったのは想像に難くありません。
…というか、自分なら目から涙がポロポロと落ちているかもしれませんよ。
書状の日付は、天正18年(西暦1590年)7月27日、午後8時ごろ。
この書状の中で政宗は、
「23日に居城の米沢城を出発したが、人馬が疲れていて、宇都宮への到着が遅れています」
「このようなことになるのは予想外の出来事でした」
「今夜にも出発し、夜通しかけて、明日の午前10時には到着します」
と必死の弁明をしています。
結局、許してもらえたそうですが、政宗としてはヒヤヒヤの対面だったでしょうね。
政宗はこの後も、通常なら秀吉の逆鱗に触れるような所業を行いますが、
秀吉は政宗の機転の利く性格を高く評価しており、叱責だけで許されています。
今まで、伊達政宗が米沢城から宇都宮城に向かったことについては知られていましたが、
その途中の行動については明らかにされておらず、この発見は学術的にも価値のあるものだそうです。
書状は、栃木県立博物館で16日から公開されます。
書状は政宗の自筆で、宛先は当時の天下人、豊臣秀吉。
その内容はというと…
遅刻の言い訳でした!
この書状が書かれた背景はというと、
- 豊臣秀吉が、関東・東北地方の大名の処遇を決めるため(関東・奥羽仕置)、宇都宮城へ入ることになった。
- 当時、現在の山形県にある米沢城を本拠としていた伊達政宗は、東北への案内役として宇都宮へ行くことになっていた。
- 同年の6月にも、関東の北条氏攻め(小田原攻め)に政宗は遅参しており、秀吉に重い警告を受けた上で許されていた。
小田原攻めの遅参に許された際、秀吉は政宗の首元を指し、
「もう少し来るのが遅れていたら、ここが危なかったぞ…」
としっかりと脅されています。
そして、翌月にいきなりの遅刻。秀吉は既に宇都宮に到着しています。
政宗が焦ったのは想像に難くありません。
…というか、自分なら目から涙がポロポロと落ちているかもしれませんよ。
書状の日付は、天正18年(西暦1590年)7月27日、午後8時ごろ。
この書状の中で政宗は、
「23日に居城の米沢城を出発したが、人馬が疲れていて、宇都宮への到着が遅れています」
「このようなことになるのは予想外の出来事でした」
「今夜にも出発し、夜通しかけて、明日の午前10時には到着します」
と必死の弁明をしています。
結局、許してもらえたそうですが、政宗としてはヒヤヒヤの対面だったでしょうね。
政宗はこの後も、通常なら秀吉の逆鱗に触れるような所業を行いますが、
秀吉は政宗の機転の利く性格を高く評価しており、叱責だけで許されています。
今まで、伊達政宗が米沢城から宇都宮城に向かったことについては知られていましたが、
その途中の行動については明らかにされておらず、この発見は学術的にも価値のあるものだそうです。
書状は、栃木県立博物館で16日から公開されます。