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原節子さんが95歳で死去。戦中戦後の日本に輝いた伝説の大女優 [芸能]

昭和の大女優、原節子さんがお亡くなりになりました。

今年の9月5日に、肺炎のために死去されたそうです。

お名前だけは聞いたことがありましたが、何と95歳だったそうです。

原節子さんは大女優として有名でしたが、最後に出演をされたのは1962年

それ以降、50年以上も経ちますが、引退後の生活についてはほとんど知られていませんでした。

今回、原節子さんが亡くなったというニュースが、

実際に死去してから3ヶ月近く経過してから報道されたということを考えても、

世間の目からは一切離れた生活を送っていたことが想像されます。

原節子さんとは、一体どのような女優さんだったのでしょうか?

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女学校を中退して女優の道へ


原さんが生まれたのは、1920年(大正9年)。

女学校に通っていたそうなのですが、実家の生活が苦しかったため、

映画監督の義理の兄の勧めに従って学校を中退、女優になる道を選びます。

そして1935年(昭和10年)、日活多摩川撮影所に入社しました。

デビュー作は、映画「ためらふ勿れ若人よ」

原さんの本名は、会田昌江(あいだ・まさえ)さんと言いますが、

このときの役名「節子」がそのまま芸名になりました。

原さんの人気を押し上げたのは、1937年に作成された映画「新しい土」

当時、日本ドイツが政治的に急接近したこともあり、

日独合同で制作された映画でしたが、この映画でヒロインに選ばれた原さんは、

その日本人離れしたルックスが日本のみならず海外でも評判になりました。

ドイツとの共同制作だったこともあり、あのヒトラーも映画を見ていたそうです。



戦時下の女優としての活動


その後、東宝へと移籍しますが、日本は戦時下

「ハワイ・マレー沖海戦」「決戦の大空へ」「勝利の日まで」など、

国民の戦意高揚を目的とした映画に多く出演しました。

まさに売れっ子女優といった状態だったのでしょうが、

その背景に戦争、国民の扇動といった目的があると思うと、

少し暗い気持ちになってしまいます。


戦後、そして引退


戦後は化粧品のポスターにカラーで登場して、暗い世相を打ち破ります。

そして、フリーとなった原さんは、「安城家の舞踏会」「青い山脈」「お嬢さん乾杯!」などの作品に出演します。

さらに1949年には小津安二郎監督の作品に初出演します。

小津監督から非常に高い評価を得た原さんは、

その後も小津監督の作品には5回、出演することになります。

ただしこの頃、体調不良が伝えられるようになり、

引退説が囁かれる中、1962年の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」への出演を最後に、

女優業を引退することになりました。

その後は、1963年に小津安二郎監督の通夜に参列したのを最後に、

現在まで表舞台に姿を現すことは2度とありませんでした。


謎に包まれた引退後


日本の誰もが知る大女優というスターダムにいながら、

引退後50年以上も大衆の前に1度も現れなかった原節子さん。

引退した後の生活が完全に謎に包まれているあたり、

まさに伝説の女優という感じがしますね。

ご冥福をお祈りいたします。




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タグ:原節子
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